日々、たゆたゆと。

2018年4月24日火曜日

ご褒美のヨーグルトと、朝。絶望しきらずに時間を流す。

私には、手持ちのカードがほとんどないな、と実感する。

だからこそ、できることもあるだろうし、だからこそ、体感することもあるのだろう。
…と思えるからこそ、絶望しきらないんだろう。私はまだこの時間の中を泳ぐ。
でも時々、自分の不甲斐なさを肴に呑んだくれることしか出来ない自分に呆れて、このまま誰とも合うこともなく引きこもったらいいのに、優しさに溢れて手を差し伸べてくれる誰かをさらに呆れさせて、嫌われたらいいのに、とか妄想をする。もしかしたら、優しさに溢れて手を差し伸べてくれる「誰か」はいるかもしれないが、やっぱり嫌われると本当に引きこもりそうなので、妄想だけにとどめておこう。そして仕事をしようと思う。
私が引きこもっても世界は暗闇にならないし、外で裸踊りをしてくれるアメノウズメも来ないのは知っている。


何で、こんな意味の一欠片もないことをむにゃむにゃ書いてるかというと、変な時間に起きてしまったことと、ある投稿のリツイートやら共有やらを見て落ち込んでしまったのである。なぜ落ち込んだかというと、私がそれをやると、意図が透けて見えてあざとく感じるだろうなと思ったからだ。それを素直に躊躇いもなくやっている人がいて、羨ましい気持ちやあざとさを感じたり、そういう気持ちになるのは自分の中に問題があるな、とやっぱり分かったからだ。
他の人は自分のことを自分ほど気にはしてないし、自意識過剰で嫌になる。自分が行動出来ないのを言い訳したり他の人のせいにしたり、本当ダメだなぁ、と思って少し落ち込んで少し泣いてからシャワーを浴びたら、そんなことより、Blogを書かない言い訳ばっかりしていた自分がやっぱり嫌になって、とりあえず書こうと思ったのだ。
前回の投稿から、新しい職場になったことやら、呑んだくれてやっぱり失敗ばっかりしていること、人を呆れさせたので少し大人しくしようと思ったことや、ちょっと旅行と実家に行って整理したり人生の洗濯をしたりして欲が出てきたこととか、専門分野の試験勉強がコツコツ出来ないこととか、やっぱり英語から逃げちゃダメだとか(試験受けたけど散々だった)、色々とあったので書きたいことはある。
前回の投稿を書いていた時期は、
書くことで癒されているのかもしれない、私。
とまで思っていたのに、書くタイミングをこぼしてしまった。数人にはBlogで書いてることいいね、と言われて嬉しかった反面、数人からはBlogについて何も言われないけど心配という言葉で自分が操作されている感覚を感じて、何も言わない(書かない)ことで自分の認知から逃げていたのだと思う。

素直に、自分が思ったことや感じたことからの衝動を行動にしていくことが課題なのだ。自分がしたいことってなんだっけ?と数年考えていたけれど、そんなものは考えても出てこないのは分かった。なら、少しでも何か日々を消費して蓄積していこうと思う。
「手持ちのカードがないことを羨むならカードを増やせばいいじゃない」
と誰かは言うと思う。でも、有用なカードがわからないのだ。増やし方ではなくカードそのものがわからないのだ。人のカードを羨ましいと思えども、そのカードはその人に馴染んでいるのでカードになっているのだ。その人だから切れるカードなのだろう。

では、どうすればいいのか?
少しずつ、自分の気持ちを言語化していることからなのかもしれない。
きっと、おそらく。答えは自分の中にあるのだ。
そんな確信のもと、少しずつ時間を紡いでいけばいいと思う。
「明日早起きできたらご褒美に食べよう」と思って買ったりんごヨーグルトを一週間以上食べる機会が訪れずに、ご褒美とも言い難い変な時間に起きた今日に食べてぐだぐだとこんな記事を書いているのも。
全て、自分の中の問題なのだ。

そう、自分の中の問題。
最近の私の中の小さな変化は、毛嫌いしていた村上春樹氏の小説を手にしたことからも見える。
この回りくどい言葉、一生好きになれないかも!
と、キャッチャー・イン・ザ・ライの冒頭で感じて、数行で読むのやめてしまって以来だ。
初期の長編である、羊をめぐる冒険に手をつけた。面白かった。
「自分の問題」と言う言葉が何度かでてきて、体がキュッとなる。そして、羊男にはいつか夢で会えると感じている。
自分の過去に感じたちょっとした違和感に気づいて、克服する努力をしたり、ありがとうと言って身から距離を離していく時期なのかもしれない。
また、村上春樹氏の本を読んだことについては、何か書きたいと思う。