日々、たゆたゆと。: 3月 2018

2018年3月19日月曜日

常識とか。知らないうちに誰かの期待を裏切っている。

始めの書き出しって、何を書いたらいいのか。
「こんにちは」がいいのか「こんばんは」がいいのか。。。
いつも悩む。
そんなことを考えるのに時間を使わなくてよくする為に、季節の言葉だったりという作法というのがあるのだろう、とふと思ったり。常識や作法を身につけていると(オートマティックに出力できると)世の中が生きやすくなるのは確かだろう。



megusunuさんって人の目を気にしないよね、とよく言われる。つまり常識がないよねと言われているのだろう。
会社員生活を他の人のフォローをもらって何とかこなせる程度の常識しか身につけていないので、未だによく常識や作法について怒られる。怒られることは何とかしたいと思ってもらえているからだと解釈しているので、有り難いと思う。怒るのに体力がいるのは知っているから。
しかし、感謝はしつつも怒る人たちの思い通りには行動できず、彼らをやきもきさせる。仕方ない、自分自身でも自分自身とうまく付き合えないのだから。
何でここでこうなっちゃうのだろう、という事がとても多い。自分に絶望するだけでなく自分を許さないと生きていけない。自分を許し難いからこそ、人を許せる体力と余裕は保持したいと思う。


先日、現場の送別会を急遽開いてもらった。私以外は皆忙しく、急遽ということもあり開催は21時からだった。送別会会場の近くの喫茶店で一人0次会をして、早く行き過ぎても周りが気を使うだろうと5分前に行ったら誰も来てなくってそれから10分ちょっと待った。これで誰も来なかったら笑うな、と思った。でも、誰も来なかったら来なかったでネタになるな、何て思っていたら、先行組が来た。「主賓を待たせてごめんね」と言われながら「いやー、一瞬来なかったらどうしようかと思ったんですよー。来なかったら流石に泣いちゃいますよね!」とかへらへらやり取りをする。自分の扱いが軽いな、と思いつつ、その方が楽だらそうなっているのだろうとも思う。うまく不機嫌になる方法が見つからない。
その後のやり取りも全てが軽かった。主賓ということで持ち上げられてはいるけど、体のいいモルモットだ。最後だから、とおもちゃにされる。ノリと雰囲気に流される。楽しい、けど残らない会話。その中で、最後だからとわざわざ別件を切り上げて来てくれた方もいて感謝に尽きる。「megusunuさんにはミーティングでフォローしてもらったからなんとか顔はだしたくって」と言ってくれて日々の中で少しは出来ていたことがあって、それが人の役に立ったみたいで嬉しくなる。送別会で軽口ばかり叩いていたリーダーも「megusunuさんにはよくやってもらった、いてくれたからなんとかなった」とか言ってくれて、もうこれからこの人たちと当分仕事する機会はないんだな、と実感する。余韻に浸っていると「けどmegusunuさん、余裕ができるとオフモードになってうとうとしたり遅刻したりするからなぁ、オンオフが激しすぎ、次の現場でそういうところが心配。期待かけてたのになぁ」とぼやかれた。自分でも心配だ、自分自身をうまく扱える自信は全くない。

出来ることと出来ないこと、出来る時と出来ない時の差が激しいのだ。
大抵の人がコミュニティや職場の中でこなしている常識や作法をうまく取り扱えないことから「アウトプットの品質の差が激しい人」「アンバランスな人」という印象を周りは持っているのだと思う。
だからこそ出来ることもあるのだろうけど、バランスを保って行動できるように苦手な所にももう少しは向きあいたい。年明けから意識はしてみて、少しは安定してきた気はする。では、それを意識したところで「あなたは楽しいですか?」「やりやすくなりましたか?」と言われるとモニョってしまう。足踏みして踏みとどまっている感覚が、少しある。


常識や作法というのは、人が生きていく上での知恵なんだな、と思う。
本質のことを考えたり、行動したりする時間に多くを費やせるように、その他生きていく上でこなさなくてはいけない雑多なことを、常識や作法というものに押し込めていったのだろう。
こうやれば人をいたずらに不快ににさせないとか、そもそもその常識や作法を知っている同士ですよね、とどういう背景や文脈を持っている者かを判断するのに使ってきたのだろう。そういう意味で不作法なことをしたりすると、プロトコル違反をしたとして、その場から排斥されるのはわからないでもない。コミュニケーションを取るべき相手ではないと判断されてしまうのであろう。
常識や作法を扱える事が、人との関係の上でとても低コストな手段だとは頭で理解できる。それを守りたいとも思うし、守る努力は続けたいと思う。そして、守れれば私の周りの面倒なことの大半は無くなるのだとも思う。
先日の飲み会やその他で小言をいうリーダーも、私のアウトプットに助かっている部分はあるけど、身内として一緒にずっとやっていきたいかと言われるとNOらしい。オン状態の強烈にアウトプット出せる時は頼りになるが、身内には安定した人を置きたい。なんでそんな簡単なことがいつも出来ないの?やる気ないの?とやきもきさせるとも。

常識や作法を取り扱う彼らの期待を知らず知らずのうちに裏切り、やきもきさせている。ここ最近でその事実には気づけた。
さて、ではこれからどうしようか。

やきもきさせた人たちに感謝しつつ、必要最低限の常識と作法を身につけて、自分のやるべきことをこなして行くしかないのかもしれない。
その人たちの評価を回復させることは出来ないと思う。それよりは、私がより楽しく生活できる方法を模索する方が有意義かもしれない。
期待をかけてくれてありがとう、そして応えられなくてごめんね。

2018年3月14日水曜日

健康診断に行って思ったこと。死者の時が止まっているのを感じるのは私は止まっていないからなのだろう。

健康診断に行ってきて、思った事などをつらつらと。


健康診断に行ってきた。
午後からの健診だったので、朝起きるまでは飲食に関して何も気にしなくて良かった。先週末アルコールで派手にやらかしたのでアルコールを飲まないのも苦ではなかったし、本当に何も気にしなかった。午後からの検診っていいな、と思っていたのだが、朝から何も食べずに午前の仕事をするのは多少きつかった。
私は、朝ごはんをきっちり食べるほうではないので大丈夫だろうと思っていたのだが、出社してからコーヒーが飲めないとかが思った以上にきつい。コーヒーといってもいつもブラックなのでカロリーはないし何も変わらないだろうと思っていたのだけど、そんなことはなく、カフェインで眠気を飛ばしていたんだなぁと気付く。あと、なんやかんや現場には差し入れのお菓子とかがあり、無意識に手を付けていたんだろうなぁ。昼をコーヒーでつないでとかで、とかもしょっちゅうしている気がしていたので、昼抜くくらい問題ないだろうと思っていたのだけど無意識になんか口にしていたのだ。そら体重減らんわ、と再認識。無意識に食べるくらいならきちんと食べたほうが体にもいいんだろうな、とも思う。結局、何がきついかって大したことではなくっても「禁止」されることなのだろう。無意識の行動を自戒する。

当初、会社負担+αで人間ドックにかかれる年齢になったので、人間ドックにかかろうと思っていたのだが、バリウムを飲みたくないとか、いつ受けに行こうとか、現場とどう調整しようとかを悩んでいるうちに退職の時期が迫ってきてしまった。結局、人間ドックはあきらめて、健康診断とオプションでいくつかの検査を受けることにした。

総合健診センターは、ロッカールームとカルテが紐づけられていた。ロッカールームのカギのバーコードを読み取ってから検査を受ける仕組みで、検査の間違いがない仕組みになっていた。また、各検査の待ち時間もシステムで管理されていて、待ち行列としてシステムで管理されているようだが、運用は多少アナログな感じで「勘」も使って運用しているのではないかという気がした。こっちの検査に並んでたけど、あっちの検査が空きそうなのでと言われて並びなおしし、そのあとやっぱり進まないので先にこの検査を先にしましょう、とか。考えてみると問診とか質問の多い人もいれば少ない人もいるだろうし人の状態によって検査時間もまちまちなのだから、その運用で正しい気もしてくる。
そんな感じだったので、思ってたほどではないにしろそれなりに待ち時間があった。本を用意していたのだけど、周りを見るとぼーっとしたり、備え付けの雑誌を読んでいたりしていたので、わざわざ準備してこないほうがよかったな、と思った。自分が自主的に手にしないものを手にした方がきっと面白い気がする。

備え付けの雑誌を読むのも癪だったので持ってきた本を多少は読んだが、ほぼほぼ、ぼーっとして過した。
いつもぼーっとはしているので「自主的に手にしないもの」では決してないが、この空間でぼーっとするのは滅多にないだろう。というか、頻度が高くなるのは嫌だ。

ぼーっとしながら、先ほどの採血を思い出す。
いつものように「採血で気分が悪くなったことはありませんか?」と聞かれた。
いつも、私は笑って間を少しごまかしてから「あります」と答えた。

私は、採血が苦手なのだと思う。

固太りで血管が細く(特に冬!)、血管が出る場所がひじの内側の中央でなく側面で、少し痛みがでやすいところらしい。採血に不向きな体なのだろう。実際に、大学生の時に献血センターに行ったとき、献血前の採血で、比較的血管が出やすい左腕を献血用に取っておくため右腕で採血しようとしたらうまく血管に刺せなかった。見てしまうと緊張するのでいつもは刺すところを見ないのだけど、さすがに気になってしまった。ちょうど刺した針で血管を探っているところだった。さーっと青ざめてしまい気が付いたらベッドにいた。それから一度は献血にチャレンジしてみたけど、冬だったのもあり血管が細くなっているからやめましょう、と断られた。
「血を抜こうとすると人に迷惑がかかる」とその時のことを思い出し、看護師さんの定型の質問に笑って間をごまかしてしまう癖がついてしまった。会社での集合健診の時に安全のためにベッドで採血してもらったのだが、それを見ていた同期に何気なく言われたことも芋づる式に思い出してしまう。

清潔な健診センターで非日常な空間だったのと、こんな風にゆったりした時間を過ごせるのもいいなぁとぼーっとしながら思っていたのだが、体が悪くなって、毎日採血をする生活になるのは嫌だな、と思いなおした。

そう思った瞬間、母のことを強烈に思い出した。
思い出したことを契機に、そういえば彼女は何歳で亡くなったのだろう、とかの質問まで浮かんでしまう。

情報整理の結果、彼女は今の私と同じくらいの歳から入退院を繰り返していたんだ。と分かった。
幼いころは認識してなかったけど(大人のものはなんだってでかい!)、大人になって家を改装するときにクローゼットの奥底から出てきた母の靴は、とても小さかった。私も母親ほどではないが足は小さいほうなので、体質も似てたんじゃないかとか思ってしまう。彼女は毎日のように腕に針を刺され採血をしていたんじゃないかと想像してぞっとした。それ以上の痛い思いをいっぱいしたのだろうから、採血なんて大したことではないのかもしれない。けれども。。。
想像できない痛みより、想像できる痛みの方がより現実的で、それを思うと、少しばかりは体に気を使ってもいいな、と思えた。

正式な結果は出てないけども、オプションで付けた検査を受けての問診で知りたくないことも知ってしまった。緊急性はほぼほぼない状態だけど念のため、とのことでもう少し検査しなさいとのことだった。
あーーー、また病院行かないといけないのか嫌だなー、知らなければ緊急性はないけど検査しろと言われることもなかったのだからオプション付けなければよかったのではないか、と思ったことを反省した。

そして、私自身が私自身の検査結果について聞けている今の時代を、素直に喜んだ。
この歳になっていまだに実家に頼ることもあったり、まだまだ一人前ではないけど、一人身になって、一度は家を出たのだから自己完結しなきゃな、とは思っていると、むりだなー、一人でなんて生きていけないなー。と、今の時代の、現実のハードさを呪うことも多々あるけども。
母は、彼女は。。。
自分の病名を死ぬまで知らなかったのだから、それを思うと今の時代の方がよりよいと思う。

それと。
3時間くらいを健診センターで過ごして。全員女性の空間(おそらく!)で過ごして。サバサバしてファンキーな女医さんと話したり(だって、婦人科の先生なんて、まあ、気になるのは仕方ないけど、私ならこれくらい気にしないけどね!とか言い切っちゃってて、話していて大変気持ち良かった)、女性として今生きるのは結構イージーで楽しいんじゃないか、と思ったり。私自身も大した事はないけど要検査となるはずの問診結果とかも、ニコニコと「そっかー」くらいの気持ちで聞けた事とかも。私が私でよかったな、と改めて。
うまく言葉にできないけど、何にも持たない自分が結構好きだと思った。もうちょっといたわってあげても良いかもしれない。

彼女が元気だったのは私の歳までか、とか思うとちょっとキュッとなる。

彼女へ。
私はあなたとコミュニケーションを取るのが苦手だったけど、きっと好きだったよ。
数年前まで嫌いと公言しててごめんね。だって、あなたも私のこと苦手だったでしょう。それは仕方がないこと。
あなたの大好きだったけんちゃんは、あなたの遺言を守らずに独り身を通したよ。ところどころ彼女はいたっぽいけどね。
あなたも元気で。幸せな時を過ごせますように。

2018年3月12日月曜日

続けてみようと思うこと。祈りに似た気持ちを伴って。

立ち止まったら書けなくなっちゃいそうで。
慣性で書けるようになるか「あ、ちょっと立ち止まってもいいかな、また、少ししたら書きだせるから」って状態になるまで、私の苦手な続けることをしてみようと思っています。続くかどうかはわかんないけど、現時点での希望として!

みなさん、こんにちは。

苦手なことをすること、続けることを「努力」っていうと少し違う気がしていて、なので努力って言葉を使わなかったのですが、なんで努力って言葉を避けたのかな、はすこし書いておこうと思います。
昨日の記事から引き続き、Blogを再び書き始めようとした気持ちについても。

今まで私は、なんかダメな時こそ、凹んだ時こそ「努力している」という状態を担保に入れて自分を甘やかしたり、努力していると何かと他のダメな事が許される気がして、結果を生まない努力を意固地になってやっている事が多かった気がします。今ももしかしたらそうかも知れないのですが、少しは違う気がしています。自分を甘やかす、というよりは拙くとも言葉にしておく事で、浮き沈みの多い自分自身を「しゃあないね」と許せる気が将来くる気がしている、なんか「祈り」のような気持ちがある気がしています。

「祈り」という言葉についてですが、一昨年ぐらいから今にかけて、祈りって大事だな、とたまにTwitterとかFacebookとかで言っていました。
こういう言葉が出てくる時って、なんやかんや自身を内省している時なのかも知れません。外のどなたかに向かって言っているのではなくって、間違いなく自分自身に言っている。人と話してついつい自分語りをしている自分に気づくときが最近何度かあったのですが、最近の自分語りって、その人に「自分をもっと知ってくれよこのやろう」という若かりし頃の餓えや渇きを伴うような乱暴な暴力的な気持ちはほとんどなくって、自分自身を内省するためな気がしています。いまだに自分探しをしているなんてとってもかっこ悪くて、自分語りをしているなと気付いたときは、付き合ってくれた人に「ほんとごめん!」って後から心の中で言っていたりします。そういう時、祈りのような思いが出てくる。ああ、この感覚がいつか伝わりますように、いつか救われますように。と。

ちょっと唐突な話に聞こえるかもしれませんが、「祈り」っていうキーワードを抱えている最中しいたけ占いを知り、独特の語り口調の星座占いがいいな、と思って、しいたけさんのブログTwitterなんかをフォローするようになりました。もちろん、商業用に書いている部分もあるとは思います。あるとは思うのですが、私の感性的には、「祈り」の成分が多くって、ぐっと彼の文章に惹かれたわけです。
ああ、こんな風にのびのびと祈りを伴った文章を書きたいな、と。
占いの形をとってはいるけど、これは祈りの文章だ、と。

でも、でもですね、人に「しいたけ占いにはまっている」といえない日々が続きました。
いうのも、またそういう占いなんていう不確かなものに心を奪われているのか、時間は有限なんだよ、と叱られたり心配される気がしてたわけです。

去年の年末に意を決して「私はしいたけ占いが好きである」という話をおずおずと飲み会の席でしたのですが、そうしたら気持ちが楽になったんですね。
ああ、自分の好きなものを言っていいんだ、好きなものを語ることでだれからも批判されないんだ、よかった。って。
たまたま、お話しした方がしいたけ占いを知っていて、ちょっと盛り上がったこともあり、更に気が大きくなりました。
で、やっぱり文章書きたいな、とふつふつと思っていました。
しかしながら、年末の締めくくりにBlogを書こう、年始の挨拶にBlogを書こう、誕生日を迎えた折にBlogを書こう。。。という風に、時は流れていき、タイミングを逸しました。

また、このパターンか。

と思ったときに、Twitterの共有で佐々木ののかさんの文章が流れてきました。
がつん、ときました。
こんな媚びない、刹那的だけど、なんか世界が少し変わるような祈りの文章があるんだ、と。

しいたけさんや佐々木ののかさんのような文章が書けることはないかもしれないけど、誰かに伝えるわけでもなく、けど、伝わるかもしれない場所で、文章を書きたい、と。

そんなわけで、ちょっとずつ気持ちを文章にして行きたいと思います。

1年と3か月更新していなかったBlogを続けざまに更新する様子は、スイッチが入ると「うわーーーっ!」とわちゃわちゃと勢いでやっちゃう癖も出ている気も。
けど、今回は、わちゃわちゃと勢いでやると続かない気がしているので、今回は少しでも冷静に、じわじわっと。。。

写真は、妹が年末にくれる干支の置き飾り。
どう見ても戌というより猫に近い気がする。
なんか、でも、ほっこりするんですよね。
猫ちゃうで戌やで。誰が何言おうと戌なんや。
と言っているようで。。。



祈りを込めて。

2018年3月11日日曜日

自分の感情の慣性と摩擦力と。動き出しさえすればどこかに行けるのかもしれない。

お久し振りです。
一年以上も、Blogを更新していないんですね。
というわけで、久しぶりの更新です。

久しぶりに何を書こうかなと前回の投稿を見ると、本をいっぱい買ったり、Blogをなかなか更新出来ていなかったという話で、成長しねーな、どうしよーもねーな、私。と、クスッと笑ってしまいました。
実は、この2017年の年末も「本全然読んでないし買っていないなー」と、転職エージェントとの面談の帰りに、中規模の本屋さんの前を通ったので思いつくままに本を買ってしまったのでした。
「何かをスタートするとき」に本屋に寄る(で、大抵、本を買うだけで満足する)癖があるのだなぁ、と改めて。


閑話休題。
成長しない私は、去年と同じ様に、なぜBlogを放置していたのか、なぜまた書こうとしだしたのか、なんていうお話w。
もちろん、もっと違う具体的な事を書きたいと思ってBlogの更新に手をつけているのですが、気持ちがあり余っちゃっている状態でして。長らく放置していたBlogに手をつけようと思ったときに、しょうもない文章でもその気持ちを言葉にしておかないと、うまく扱えない気がしているのです。
少しの間、お付き合いいただければ幸いです。

しゃあーねーなぁ。
と、ぼやいているあなたが私は大好きです!!!

Blogを放置している間の、約1年と3ヶ月、書きたいな、と思うことはいっぱいありました。
この、いっぱいは定性的なものではなく、私は「一冊のノートに何でも書く」という事をしていて、去年一年のノートを振り返ると「Blogを更新する」というTODOが少なくとも10箇所以上のページに書かれていました。
書いて整理したい、つまり、書く事で切り離したいことや書くことで改めて客観的にその物事を見つめ直したい、ということがそれなりにあったのだと思います。

Blogを書きたいと思う気持ちはあれど、実行に移せなかったのか。
と考えると、
単に怠け者だから、口だけだから。
というのは当然あると思います。
しかしながら、文章を書きたいと思っているからこそ、どう書こうか、良い文章を書きたいなとか、と変に考えてしまって、純粋に行動することが出来なくなっていた事の方が大きいと感じます。
モチベーションがなかった訳でもないんですけど、考えて考えて、書くタイミングを逸して、タイミングがズレたのでいいや、となっていた感じ。
何事も「旬」というものはあるので、タイミングを逸するとわざわざ書くのもな、と思ってしまい、書くという事を止めている状態からタイミングという外的力をうまく与えられず、書かないというか書けないという時間を過ごしていた気がします。

そして、どんどん自分の中だけで、気持ちが重くなり、摩擦力をあげていく。

動きたい、動きたくない。
書きたい、書きたくない。

そこらへんがぐるぐる回って、行きつくところまでいって。


そんなんどうでもいいやん、書きたいんでしょ、書けばいいやん。


と感じるように。
別に、いい文章でなくってもいいやん、と。

去年から少し変わった感覚をあげると、
自分のために文章を書きたいな。
と言葉に出せるようになった事です。
今、自分の力で転がってる、というところまではいけてないかもですが、
最近、私の周辺の環境もやっと落ち着いてきて、少しは自分で選択して時間を過ごせるようになってきました。
自分って捨てたものではないな、とか、自分はわりかしかわいいヤツなんではないか、とか思えたりするくらいには自分に向き合っています。
今から思うと、ちょっと前の私は、人のため、とか、仕事のため、と、斜に構えて自分や自分の身の回りをほっぽって自暴自棄に過ごした気もします。自分から逃げて自分と向かいあわずに、他人の時間に投資していた気がします。つまり、自分のことを考えたくないから、自分のことを考えなくても良い言い訳ができる環境を無意識に選択していたのかもしれない、とも。


とまあ、こんな風に、ちょっとずつ自分のために何かしたいな、という気持ちが高まってきたので、溜まっていた事を文章にしていきたいな、と思っています。
ちょっと面倒くさいとは思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。

年末に買った本の写真見てると、そういえば、斜め読みはしてたこんまりさんの本とかも買ってたんだ、と微笑ましい。(まだ手をつけていない)
年始を迎えるにあたって部屋を片付けたかったのね。。。(棒
はよ、服も本も書類も気持ちも。整理・整頓しよう。